昭和46年12月11日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
教祖様が農民の出でありますから、こう云う御理解も自然となさっておられる訳で御座いましょう。荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。地が荒れておったら物が生じませんね。愈々、荒れ屋敷では同んなじ事がいえます。そこが綺麗に雑草が取り除かれたり、又は綺麗に耕されたり。そして其処に肥料が施され、そして其処に種が蒔かれたり、植えられたりいたしまして、初めてそれから限りないお恵みに浴する事が出来るのですから。ただ荒れておっただけでは、荒地であったんでは、ね。
何も所謂お恵みに浴する事が出来ません。ね。いかに神様とてもいわば詮無い事、しようのない事。おかげを、いかに私共が願っても、ね、田も耕さなければ種は植えない、肥料も施さない草も取らない。それでは良い物が其処から生まれるはず、其処から限りないおかげが生じて来る道理がありません。ね。私共がその例えば荒地なら荒地を耕させてもらう、そして、種を蒔かせてもらう。そして手入れをさせて頂く。其処に天地のお恵みを浴する事が出来、天地のお恵みを一杯に良くした野菜なり。ね、
又は穀物なり、まあ様々な物が其処から限りなく生じて来る訳なんですから。成程神様がお嫌いなさると、是は教祖ご自身の、御体験からでもそれを感じ取られたのじゃなかろうかと思います。限りなく頂けれるおかげ。それを其処でおかげを、いわば遮断しておる様な物ですからね。それこそよく地ですね。本当に良く肥えた土地が綺麗に整地されて、綺麗に黒々と耕されたりしておる田や畑を見ますと、全然、経験のない私共でも何か心が温まる様な、温かくなる様な思いが致します。ね。
そこへ良い種が盛らされる、良い物が植えられる。そこから限りなく、ね、年々歳々、毎年、毎年そこから限りないお恵みが頂ける。私は、おかげとはそう言う物だと思うです。荒地荒れ屋敷にま、カッと何かそこにその生まれて来ると言った様な事じゃないと思う。用人がそこに終わると云う事はないと思う。それは雑草ならいざ知らず。しかし、良い物も生まれません。ね、
その道理なんです、そう云う道理なんです。ですから、いわば私共の心を地と致しましょうか。ね。その心が荒れておったんでは、その行いが荒んでおったんでは、とてもとても良い物が生まれるとは思われません。ね、それで、どうぞ助けて下さいと言うても、それは無理な事。ね。限りなく自らの心の上にしっとりとした、瑞々しい、生き生きとした、そう云う心で良い行いをさせてもらい、良い事を思わせてもらい、ね。其処から良い物がおれないはずはありません、生じないはずはありません。ね。
私共の心を本気で見極めさせてもろうて、ね。雑草を取り除かせてもらい、ね、肥料を施させてもらい、耕させてもらい。いわゆる、私共の心の体調、ね、開墾させてもらう、開かせてもらう。信心とは、私はそれだと思う。ね、人間の心が荒れておる、荒んでおる。是を神様がお嫌いなさる、お喜びになるはずがない。昨日、私はある教会の先生から、もう接っ接たる、そのある難儀な問題に付いてお届けなり、お願い、先生は此処ん所を、どう思われるだろうかと云うお手紙に接した。
本当に読ませて頂いて、私も同感、私もそうだと思う。まあ言うならば現金光教の一つのガンとも思われる様な物是では、成程生きた物は生まれて来るまいと思われる様な、その事自体をね、悩んでおられる先生からのお手紙に、まあ色々久し振りで、まあ筆を取らせて頂いた。まあ、日頃手紙ってのは書きません。まあその中の一節です、是は。読んで見ましょう。年のせいでしょうか。近代は特に大勢の人が集まって話をしていると、無駄口ばかりの様に思われて面白くなくなりました。
しっとりと、互いに内腑を語り合う。内腑とは心のひそかな物を語り合うのが楽しみです。騒々しい世界から、静寂の世界へとは、私の今の気分です。実は私は寂しがり屋です。泣き虫の弱い男です。弱いから強い者に憧れずにはおられないのです。寂しがり屋ですから、明るい世界を求めて止まぬ心が湧くのです。議論をし合う様な人は嫌ですね。弱肉強食、いよいよ嫌です。是は、お手紙の中の一節です。ね。是は、まあ事実、私の今の心の状態。まあ、本当に近来そうなんです。
とても私の言うておる事をみんなが分かろうとは思われませんし、その分からない人達に、の中で、そこにジッとしておる事すら、この頃はもう嫌な感じがするんです。かと言うて、ね、例えば昨夜など、私と高橋さんと、杉山さんと、秋永文男先生と、繁雄さんとで、もうそれこそ、もう秋の夜長にも時の経つのを忘れる様にして、まあ色々お話をしております。そして、こう云う事は誰にでも話されないと云う事を平気で話しておる自分にね、ビックリする位です。そう云う例えば集いて。
または、私のそう云う信心を頂きたいと言うて集まって来る人の為にならば、ね、もう何時間、限りなくお話を続けておっても、良いのですし、その雰囲気もまた有り難いのですけれども。私がいわゆる、此処に書いておる、そのしっとりとした物を他に感ずる事は出けん、他所では。もうその中におったらもう一時でも早く立ちたい。もう是が私の偽わらざる最近の心境です。分からん奴がおったら分からせよう、私の説を聞かせよう。ならそう云う時代もありました。
けれども私は今日の御理解を頂いて見てです、私の心がしっとりと段々おかげを頂いて来ておる。いわゆる今日の此の手紙の一節から申しますとです。騒々しい世界から静寂の世界へと、こう変わって行っておる私の心と言う物。そう云う心の状態。それをやはり神様へ向けている。其処からです、私は良い物を生み、私のそう云う心から良い物が生じておる、生まれて来ておる様に思われる。ね。
いわゆる最近言云う話をさせて頂いておる中で、文男先生が、先生、こう云う様なお夢を今朝方から、お夢を頂いたと言うて、夢のお話をしておりました。お夢の中で、若先生が誰からか、御神米を受けておられる。その御神米にね、普通でしたら御神米と、ね。御神に、神の米とこう書いてある、御神米。それが、御神米と言うのが、神と言うのが親と云う字が書いてある。
私は今日の御理解を頂かせて頂きながら。ね、荒地荒れ屋敷という事を荒れた心、荒んだ行いと云う風に、まあ今日は皆さんに聞いて頂いている訳です。所謂しっとりとした心。まあ昨夜の月次祭の中のお話の中にも申しましたように、ね。普通ならばめんどくさいとかしまったとか失敗をしたとかと言った様な時であっても、そう云う中に実意を込めてと言うと大げさですけれども、その事をしっとりとした心がなからなければ、昨日私がお話を致しました、風呂場の出来事などの事は出来ませんですね。
その煩わしい、例えばそう云う事柄の中から、むしろ私の心の中には、それでもやはり心の中に花が咲き続ける。お茶で言ういわば侘びとか錆とかと言うのは、こう云う時に頂ける心ではなかろうかと云う様な、そういう中にあって、しっとりとした物が心の中に頂ける。ね。荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。と言うなら、それとは反対に心が肥えて来る、豊かになって来る、しっとりとして来る。そう云う心を神様がお喜び下さらないはずがない。そこに、良い種が蒔かれるなら、良い物が起きらないはずがない。
良い花が良い実りがない筈がない。今度の御本部参拝も実を言うたらまあ今日此処にも申します様に大勢のある、まあ問題と云う訳じゃないですけれども。この頃からラジオ放送の原稿を送ってくれ。そして何月何日に話をしてくれと云う申し出が本部からあっておりました。その事も今度若先生が御本部参拝をさせて頂いた理由の一つでした。どうもそう言う所にそう言うやっぱまあ言うなら晴れがましいとでも申しましょうか。
けれども、私の心の中には何かその騒々しい中、無駄な事の中に行く様な気がして、どうも嫌で嫌で堪らなかった。そして私は、一応は心の中にお話をするならば、私のこう言う、現在の心の状態を話させてもらおうと言うて、2~3回目のお月次祭の時に、皆さんに聞いて頂きましたね。世界中の人達が、ね、私の様な心の状態になった時が、世界中が平和な時なのだと。世界中の人が私の様な心の状態になった時に、世界中の人が幸福を一杯に感じれる時なんだ。
現に、私は此の様なおかげを頂いておる。私の此の様な唱えておるとこ。私が唱えておる所の和賀心時代に皆さんもどうぞ、まあそこに、一つ集まれと言った様な意味の事をお話しましたですね。その和賀心の上に今日の御理解じゃない。限りなくおかげの受けられる現場と言う物がそこに出来るのだ。だから人間の幸福は、もう此処にあるのだと。警察もいらなくなるだろう、ね。戦争の道具を作る事もいらなくなるだろう、と言った様な事を、まあ色々お話したいと思うたんですけれどですね。
とても現在の本部教庁で私が言うておる事を受け付けられるとは思われなかった。だからもう断れるよりも早うこちらから断らしたら良かろうと思うて、ね、体の状態健康状態がこうですからと言うてお断りに今度は、その事もあって若先生が今日今度行ったんです。どうも本当にそう言う騒々しい所、ね、それは御用と言う言葉にを借りればですね、それは御用になるかも知れませんけれどもしかし本当の御用にはならない。
そんな事でしたが、もっと他にも2~3ある人が行ってくれたら良いと云う用件御座いまして、まあ参りましたが。本部の方で指定しておる汽車には乗らずに、一晩泊りのある汽車に、を、もう私何も言わずにキップを買いにやっている。そして、その時に申し込んだ所、久留米の方達だけでお参りする様にしておる。私の考えとしては、若先生共夫婦をです。いわば、要して総代、幹部皆の方達が何時もの様に沢山、団体でお参りをして頂きたいと云う思いを持っておった。
それをもうすでにキップを買ったの、汽車はもう是に決めてのとこう云う訳ですから、もう私も言おうと思う事が言えなくなってしまった。ああこりゃもう仕方がないから、そうして行かなきゃと。ね、親の心を一つも組もうともしなければ、体しようともしていないね。それは最近はまあ新婚いわばホヤホヤで御座いますからね。まっいちいちガタガタ言うた所で、まっ、無理からぬ事で御座いますけれども、夕べでもそうです。御信者さん方と御一緒に帰って来るかと思うたら帰って来ないね。
そして何か用があるとか何とかと言った様な、もうまた良いお話聞かせてもらいよったら、本当におかげを頂いて奥城に出らせて頂いた、お広前に出らせて頂いた。若先生を中心にかと思ったら、若先生とはぜんぜん出て来ていない。三橋先生を中心にまあ皆さんが有り難いおかげを頂いて来たと云うだけ。それは成程二日に泊まらして頂いておりますけれども、ちゃんと時間を打ち合わせて、一緒にお届けにも行こう、一緒にお参りをさせて頂いてと云う、たった5~6人の事ですから。
どんなにそれこそもっとらっとした御本部参拝が出来なければならないのに、自分達は別行動を取っておる。まあ私の生き方からはもう本当に離れた生き方なんです。そう云う事を、私は心に掛かりましたから、昨夜のお祭の後にその事を神様にお願いを申させて頂いておりましたらです、昨日のご理解に出て来ておりますように。ね。自分が本当な物ではないと云う事を、分からせて頂く機会を、与えられておるんだと頂きましたから、はあ、やっぱり分かる所は分かる。
私が言うて聞かせて、分からせたんじゃいかん。成程親先生の元を離れる、自分達夫婦で行動をしておる。其処にです、成程自分達の思い方だけではいけないのだ、親の心を体して、行かなければおかげが受けられないのだと云う事が、分からせて頂く為の機会を、今あの人達夫婦に、与えられておるんだと思いましたから。ね。どうした事っちゃろうか、一緒に行くとは行って、帰りは別々帰って来るなんて。と
思いましたけれども、神様がそう云う働きを下さってあると分からせて頂いたら心がやはり収まったと云うか、やはりおかげとして、お礼を申し上げなければならんと云う事になった。その事を神様が指摘して、文男先生に教えられておられるのです。勝彦が頂いておるのは、いわゆる御神米。けれどもその御神米が御親の米と書いてある。今日から頂きますと、私共の命の根はお米であるならばです、私共の肉体の根は心なのです。いわゆる、是が根なんです。いわゆる、親の心と云う事なんです。ね、
勝彦は今こそ親の心を体して、親の心を頂かなければならないと云う事なんです。それを、なら文男先生が頂いておると云う事は、決して是は若先生達夫婦だけじゃない、ね、子供の全部がそうだと云う事。文男先生自身も、親先生の心をもう少し体しなきゃいけないと云う事。いや、親先生だけではない。此処で御神縁を頂いて、此処で信心の稽古をさせて頂く者は、親先生の心を頂こう、信心を頂こうと言うて集まって来る人ばっかりなのだ。してみると、御神米じゃなくて、もう親の心である。
それを頂かせて頂くのが、合楽理念を頂いておる全ての人でなからなければならないと云う事である。それには、先ず私の心が分からなければいけん。ね。私は今度の御本部参拝も、ね、むしろ若先生達、若い者夫婦を中心に、総代幹部がそれを愛要するようにして、そして、是を守る様にして御本部参拝して頂きたい、お礼をして頂きたい。高橋さん、あの、何時もの様に、あそこにずっと書き出しよる茂さんに言うて頼んで下さいと言うて、何回かお願いしておったけれども、出けていなかった。
出けていなかった結果が、今度のたった5~6名のお参りと云う事になった。成程他所からでも、5~6名も参っておる所っちゃ沢山はない位にだったけど、他所は他所。けれども、此処は、此処じゃなければならない。むしろ、若先生達夫婦であるから、ね、力の弱い者であるから、それを総代幹部が、皆がこれを要して行く様な、ね、温かい御本部参拝をさせたかった、してもらいたかった。
本当に私には尋ねもせずに、自分達でさっさと行動してしまって、出来るなら自分達夫婦だけで行きたい様な、その状態だったから、丸きり付いて行った4~5人の御信者の方が邪魔になるごたる感じです、勝彦の言う事を聞きよると。もうそげな新婚旅行もその長々と行って来てから、そげな事のあって良かろうはずはないのだけれど。いわゆる今日の御理解を頂くと、心が荒れておる、行いが荒れておると云う事になるのです。荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。
それでもやはり、此処の二代目として神様が思いを掛けておって下さるから、そう云う機会を逃さずにです、ね、自分がまだ本当な物じゃないのだなと云う事を分からせて下さる為に、そういうチャンスを与えて下さったと云う事にもなった訳で御座います。ね。本当に今の私に、親身にです。本当に求め、いわゆる心のおきなく。例えば話は、例えば昨日月次祭後に、夜のふけるのも忘れる様にしてお話をしたと申します事なんかの中にでもです。それこそ、私の内秘。私の心の中に密かにしておる物。
そう言う物までがお話の中に出て来ておると云う事ね。そして、初めて私の心を体する事が出け、私の心をはあ親先生の心はそこばいなと云う事が分かるのだ。それを伺いもせん、寄り付きもしないならば、それを、いわばこう開かせてもらう機会が無くなってしまう。ね。神様は成程、ね、いわゆる御神米。ね、いわゆる親の心を下げておる。親の心を頂けと、神様は文男先生を通して、勝彦夫婦だけではない、皆にそう云う事を願い、思いにしておられると云う事を感じさせて頂きます。
今日は荒地荒れ屋敷をお嫌いになさると言うか、大変な所へ進展して参りましたけれども、やはり今日のご理解、荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。そのお嫌いなさると仰るその反対の事。それは、神様がお喜びなさる事。そのお喜びなさると云う事はどう云う事か。現在の私の状態に心の状態を、例えばこの手紙一節の中に書いてあります様にね。だから、明るい世界を求めて止まない心が湧いて来るのであり。
だから弱い者が強い者にあこがれる動燃心がいよいよ、燃えてくるものが生まれて来るのでありね。私のいわゆる自分ながら。こう云う中にこう云う、しっとりとした心が頂けると云う事をです、有り難いと思え。そう云う心の中の中をです、皆さんにも聞いてもらえれる私と皆さんであって頂きたい。そう云う事自体がです、神様がお嫌いになさるではなくて、神様がお喜び下さる心の状態だと思うのです。
それを言えれ、それを聞けれる心の状態。それが荒地ではなくて、荒れ屋敷では、では聞けない事であり、また言えない事である。ね。一心とは私共の心と神様の心が一つになった時、それを一心と言うんだと云う様に昨日は頂きましたが。ね。私の心と皆さんの心が一つに溶け合う、それが一心なのです。ね。それには、お互いの心がです、ね、荒れておっては、荒んでおっては、一緒になる事は出けません。
一心になる事は出けません。お互いが一つ、ね、いわゆる御神米と文男先生が頂いております様な物をです、皆さんも下げて頂けれる心の状態を作らせてもらう事。それがそのまま私の心から荒地荒れ屋敷が無くなって行く事になり、限りないお恵みが、限りなく其処から生じて来るおかげを受けられる心の状態を願っての信心でなからなければならんと思う訳ですね。
どうぞ。